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現在中2なんですが、教科書に載っていない事が沢山あって面白かったです‼️
面白かったです♪ 「一国一城の主!」って言えないお殿様、多かったんですね、現代と同じみたいwww
嬉しいご感想をいただき有難うございます。そのようです(笑)私も含め、殿様といえばお城に住んでいると思っている人は多かったはず(笑)
@@sakatosu6817 陣屋があるのは、まだましで新田藩という大名は本家から1万石以上の米を支給されているだけの大名。だから陣屋どころか領地が無い。米沢藩の分家の米沢新田藩の場合に藩庁が米沢城二の丸で江戸屋敷も米沢藩の江戸中屋敷の一部を間借りしている。
1.5倍速で聞くと丁度いい感じになるぞ
参考文献読んでみようと思います、興味津津。
任期の半分を江戸で過ごす大名は江戸城に出勤して命令を待ってたり役職をあてがわれたりしてたようなので「大名の江戸生活」も面白そうですね。
幕府要職に着く譜代大名は石高はあまり大きくなく彦根の井伊が唯一30万石見たいです
更新の影響に、図書館の休館。こちらもリアルだな。
大名行列、山口の岩国の錦帯橋で大藩の行列と岩国藩(幕府の命令で城無しにされた)の行列がかち合って一騒々あったというのが説明板に書いてあったのを思い出しました。道を譲れと言う大藩に岩国藩は槍を立てて、見送ったそうです。
そもそも岩国は吉川広家の末裔で関ヶ原の因縁で本家毛利家のせいで大名扱いされていない。だから官位も無いそれなのに参勤交代しているという矛盾。
今日も動画ありがとうございます。大名は、参勤交代とか対幕府の関係でも大変ですけど、対家臣、対領内でも大名の好きにできたわけではないんですよね。藩の慣例を無視したり、家臣の意見を無視するような大名は押し込めの論理で隠居させられたりしますし。そこら辺、笠谷和比古著「主君「押込」の構造」とかに詳細が載っています。
いつも嬉しいご感想を有難うございます。江戸時代にはバカ殿なんて言われる殿様もいますけれど、実はそれは普段のストレスからだったのかもですね(笑)
あの名君上杉鷹山公も改革を重臣が理解せず、危うく押し込めになるかもしれなかった。
@@yh6146 そうなんです。上杉鷹山に限らず、改革しようとして押し込め、隠居させられた大名とかの例も本では言及しています。
しかも、生来からの「バカ殿様」ばかりではなく、最初は英明な殿様だったのに、突然豹変してしまう殿様もいました。水野忠辰(ただとき。三河岡崎藩6代目当主)は、藩政改革に熱心なお殿様で、質素倹約(むろん自分も)や能力のあるものを昇進させて重役に取り立てるなどの改革を行ったり、俸禄の前借や藩士の借金の肩代わりを行うなど、開明的な政策を行っていきました。しかし、保守派の家老に妨害されて政策がうまくいかなくなるとやけっぱちになったのか、これまでの質素倹約はどこへやら、遊興にふけって悪政を行うようになっていきました(息子の豹変ぶりに生母順性院は諫言を行いましたが忠辰は聞き入れず、彼女が諌死してしまうほどでした)。その後もその態度は治らず、結局家臣総合意のもと、彼は座敷牢に押し込められました。上杉治憲(鷹山)公も座敷牢に閉じ込められましたが、彼は恐らく、改革に反対する家臣たちと腹を割って話したのでしょう。だからこそ、あの難しい改革を成功へと導くことができたと私は思っています。
籠に乗っているとき、大名同士の挨拶は同格、格下くらいなら籠のなかで挨拶するくらいだが御三家、将軍家なら降りて平伏しないといけないから大変だよ。
当時の大名の多くは莫大な額の借金を抱えていて、徹底したきつい倹約生活をしていたところも多いという話もありますし…。少なくとも、現代人が想像するような悠々自適な生活とはかけ離れていると思います…。ちなみに、明治維新の時、版籍奉還や廃藩置県に大名たちがすんなり応じたのは、借金を明治政府に肩代わりしてもらえるかららしいです…。
結局は肩代わりした明治政府は踏み倒して、両替商の大半を倒産させる暴挙に出ますけどね。
@@shibamofumofu4983 そして、最大の借金が薩摩藩。20数年前に500万両の借金で毎年2万両の返却だからまだ400万両以上借金があったはず。
@@yh6146 さん明治新政府といっても、実体は薩長連合幕府ですから(汗)
@@yh6146 薩英戦争の賠償金も幕府に立て替えてもらったのに踏み倒しやがったしなw確か六万両だったか
@@haku3492 薩長が色々ヤラカシタ結果、倒幕して政権盗ったのに幕府の金蔵は空っぽで財政難。
佐々木蔵之介さん主演の映画超高速参勤交代 を思い出しました。貧乏大名が知恵を絞り、超高速で江戸まで参勤交代をやってのけるお話です。現実のお殿様もなかなか御苦労あそばされておられたようですね。
ご感想をいただき有難うございます。その映画、観よう観ようと思いながら中々見れていません(´;ω;`)Amazoプライムでと思っていますが、いつになるやら・・・
Amazon primaでみれるのであとで見てみようと思いますわ
参勤交代も大変ですよ。幕府に指定された日までに江戸に到着していないと、処罰対象となり、改易もあり得ました。それだけならばまだしも、動画にも登場したように他の大名家と鉢合わせになれば、(くだらないことだとは思いますが)意地の張り合いで流血沙汰なんてこともあり得るでしょう。それにしても、相馬藩の家臣もよくもまぁ、会津松平家という親藩の一角をなす大名の家臣に喧嘩を吹っ掛ける勇気がありましたね。まぁおそらく相手が親藩だとはわかっていたとしても、嘗められまいと戦いを挑んだのでしょう。
1回くらい1話完結のオムニバス大河ドラマの年があっても面白そう。50藩くらいだったら、なんとか絞り出せば話はあるんじゃないかな?
「鉢植え大名」なんて言葉があるくらい、大名の国替えも多かった。星野源さん主演の「引っ越し大名」では、国替えの悲喜劇が描かれていて面白いです。
ご感想をいただき有難うございます実は似たような引っ越しする大名についての本がありまして・・・狙っています(笑)
モデルの大名が越前藩の分家当主で家康のひ孫の松平直矩(なおのり)。実際に5回国替になっているし、途中で親戚の御家騒動の巻添えで15万石から7万石に減らされて15万石に戻ったりした。ちなみに父親も3回国替になった。
他藩でも引っ越し費用不足で幕府から借り受けた殿様もいる
@@CHOCOBOLIAさん借りるどころか、お金がなさ過ぎて引越命令そのものが撤回された事もあります。
始めて聞いた話が多く面白かったです。半分も城なし大名がいたり、石高なしの殿様までいたとはびっくりでした。それもよく聞く大名で驚きました。参勤交代制度は大名の財力を削ぐのに成功していたと言うことですね。大名行列も大変気になった行事だったんですね。ますます興味を唆られました。面白い動画有難うございました。
嬉しいご感想をいただき有難うございます。大名って殿様というイメージが先行して案外知りませんよね。私も今回良い勉強になりました。
大名と言っても確か200人くらいいたな。江戸時代は一国一城制度がとられてから、旧律令制度の国には一つの城しか許されなかったから当時の国の数は70-80ほどだ有力大名の中にはほぼ三国を領有していた加賀前田藩のように二つ以上の国を領有していた大名もいるしそれを考えると、城をもった大名は半分以下だと思うがちなみに一国一城の主とは、まさに律令制度の国を一つ以上もちさらに城をもっていた。大名の中でも特に有力な国もち大名のことだな
@@御神誉黎 加賀藩でも城は2つ。そして外様で最大が久保田藩佐竹家の3つ。徳川一門で紀州藩が5つ城があった。まあ、その内2つは幕府からの附家老の城だけど。
サムネの絵すごいですね。老中や大々名などが該当する四位以上の黒。一般的な大名や大身旗本の五位の赤。その他大勢の、布衣(六位)の緑や無位無官の無地。きっちり厳格に別れてますね。
興味深いお話を動画にUPしていただきありがとうございました。城無し大名は「御鑓拝借」おやりはいしゃくで存じていましたが、石無し大名というのがあったことを初めて知りました。大名を名乗る以上それなりに見栄もあるでしょうし、どの世界でも下級何とかというのは肩身が狭くつらいものですね。
大名行列同士が遭遇した時に御三家と遭遇したら大名でも土下座しないといけないというのがなかった。
ゆっくり藩はやっていたな。
投稿お疲れ様です。次回も楽しみにしています!
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
図書館の閉鎖はマジできついっすね頑張ってください……
昭和にはアメリカ大ネズミが浦安で城持ち…会津藩は幕末の諸々も含めて強烈だなぁ
1分43秒付近から表示された一覧表に、一部誤り(誤字)があると思うので書きます正しくは、国主大名(一国一円支配と、大身国持(陸奥仙台伊達家、出羽秋田佐竹家など)の2種類がある)、准国主大名(準国主大名と書かれる場合もある)、城主大名、城主格大名(陣屋大名から上がっても、城の基礎部分を石垣造りに改造することは許されない)、陣屋大名(城主大名以上は領地と呼ぶのに対して、陣屋大名は「在所」と呼ぶ)、の5種類です動画アップ主様への、参考程度まで申し上げました
本陣ってあちこちあるね。参勤交代のお泊まりだけかと思ってました!勉強になった!ありがと😉👍🎶
わたしは兵庫県の中部で1300年頃から地元にすんでいる元は武士の家系です。色々言い伝えがあり、その中でも江戸時代に幕府領と藩の境目に住んでいたので、幕府の偉いさんや、藩のお姫様が家に遊びに来ていたとお爺さんから聞きました。小さい時は特に気にもならなかったのですが、大人になり歴史を学んで行く上で、まぁまぁすごい事なんだと気づきました。
唯一「一国一城令」の例外があって、肥後藩は本城と別に出城(八代城のちに麦島城)を作ることを許されてた。なぜならその南側があの島津薩摩だったからところが、廃課金トップランカー要塞仕様の熊本城と普通の城なんて2つも抱えてたから肥後細川は「鍋底に細川の字を書けば金気が抜ける」とまで言われた貧乏藩主に(細川さんは泣いていい)
最初の方、越中の氾濫した川、片貝川(かたかいがわ)です。
一万石ぴったしの陣屋大名だと「国持大名が羨ましい、次に3000石くらいの大身旗本が諸役もなく裕福で羨ましい」と言うのが本音だったかもしれませんね。
江戸時代最大石高「加賀100万石」だから全ての大名行列で譲らなければならない❗
@@原田慎也-d6y 加賀前田家は外様大名とはいえ。大名の中でも別格の扱いを受けていたがしかし大名の頂点に立つのは徳川御三家であり、加賀前田家はそれに次ぐ位置づけですね大名のランクは石高で決めるのが妥当だが。それではどうしても幕府の政治的な思惑とは一致しない。御三家を大名の頂点にしようと思えば、少なくとも前田家と同等の百万石以上の大名にする必要があるがそうなれば御三家が力を持ちすぎて、徳川宗家に対抗する勢力になりかねない。跡目争いなどで内紛が起こるだろうさらに幕府の要職につく大名も、外様大名から選ぶ必要が出てくる。石高は外様の方が多いのだからなしかしそれでは譜代が無視される事になるそういうわけで、苦肉の策として、官位で大名のランク付けが行われていた。尾張徳川と紀伊徳川は大納言で水戸徳川は少納言、加賀前田家は左近衛少将だったかな?そして例外的に鷹司松平家は摂関家の鷹司家の分家であり徳川の親藩ちう特殊な立場から、一万石の大名ながら御三家に次ぐ扱いを受けていたこんな具合に幕府での大名としてのランクは官位でバランスをとっていた
なんでも三万石以下は大名ではなく「小名」と呼んだそうです。後世「名奉行」で名高い大岡忠相も、晩年には旗本から陣屋大名に昇っています。でも前からの大名たちに差別されて同じ部屋に入れてもらえなかったとか。身分制度の時代は今よりも酷い“いじめ”があって、為に刃傷事件まで起こっています。現代でも全く進歩していませんね…今回も勉強させてもらいました。また次回も期待しています。
嬉しいご感想をいただき有難うございます。はい、大岡越前の例も載っていました。殿様と一口にいっても本当に様々ですね~。
柳生十兵衛の柳生家も、小名⇔大名を、繰り返したらしい。
有名なのは、藤堂高虎公の功績で、藤堂家は伊賀・伊勢2カ国の大名になったと言う話もある。外様大名は、主要地域から離れて置かれているものの、藤堂家が治めている地域は近畿地方の京都・大坂から近いのも珍しい。また、後に江戸幕府八代将軍であった徳川吉宗公も紀伊藩主時代、格式など大変ではなかったのか?
大名の半分は城を持ってなかったんですね。肥後細川藩の2城持ちは例外中の例外だったのですね。
伊達も青葉城と白河城、佐竹も秋田城と横手城、蜂須賀も徳島城と洲本城、前田も金沢城と穴水城。
@@吉野正洋-k5g 白河小峰城は1867年(慶応3)以降二本松城主丹羽氏の預かりで、即幕府消滅穴水城は1583年(天正11)に廃城、だけど佐竹と蜂須賀は2城持っていたんだね!蜂須賀は淡路加増時に洲本城が付いてきた感じだね佐竹は幕府にお願いして横手城を残したのか
7:49槍だけに「やりすぎ」って駄洒落?
幕府の大名統制、まじでうまく考えてますよね。御三家、親藩、譜代、外様大名江戸城内の詰所国持~無城大名官位松平あげますこれらで微妙に差をつけてるのがすごい。1万石でも苗木藩みたいに城持ちいるし(まあ、城がラピュタの小屋みたいですがw)、10万石でも大聖寺藩みたいに無城……(城壊してたからというアクシデントで21万石でも無城の久留米藩有馬氏も一時期いたが)ちなみに、松前は最初無高だから客将あつかい(しかしアイヌとの独占交易権はずっともらってた)、つぎが1万石格、その次は3万石格(田沼時代にはすでに3万石格)で、そこから梁川にとばされ、松前周辺だけ戻され、また本州にとばされ(このとき東北の適当なとこに3万石与えられるが、東北の大名たちから差し出させたとこばかりなのでろくに米が取れず、また幕府に泣きつき、領地でなく年金をもらうようになる…)という変遷です。最初の無高は当然大名扱いされず、梁川時代も9千石だからやはり指摘通り大名扱いされず……ですが、あとは(梁川から戻され本州にまた飛ばされるまでの時期は不明ですが)ずっと大名扱いされてます。会津の松平すごいですね。相馬が悪いが、担当の家臣を殺し相馬の連中も殺すとか、、、血の気が多いというかなんというか。会津は養子が多いから家臣統制しづらかったのでしょうかね?
大名家も石高だけではなく、官位もありますので。参勤交代の大名行列も、正式には軍事行動ですから、古来から行列の2〜3の先の宿場に物見を出して、他の大名家の動きを調べていましたが。会津藩はニ代将軍の男子の家系ですので、家格としたら御三家に近い存在でしたし。幕府も、有力大名家には気を使っていましたので、江戸城松の廊下での刃傷事件の取調べでも、浅野内匠頭に対して大目付から老中まで、芸州浅野本家に対していろいろと気遣いしている記録がありますので。
津軽氏と南部氏は仲が悪すぎたので参勤交代の年をずらした上で江戸の藩邸も南部氏が山の手、津軽氏が下町と離れた所に置いて家来同士が江戸市中でかち合う事も無いようにしていた。又、津軽氏は参勤交代では南部氏の領内を通らなくて済む羽州街道経由のルートを使っていた。
その二つを青森県で一つにした薩長酷すぎ
@@ユッキー-g1y 薩長じゃなくて会津由来の議員さんが松前県としてひとつにしたらしいよ
南部氏と仲が悪かったのは伊達氏だけかと思ったら、津軽氏もだったのですね。
@@伊藤健一-g2y 津軽氏と南部氏の遺恨は津軽氏と伊達氏の遺恨の比では無かった。津軽氏は元々南部氏の被官だったけど、1570年に南部氏の後継者争いに乗じて当時の南部氏領屈指の米どころだった津軽地方を奪って独立した上に、豊臣秀吉にも南部氏に先立って臣従し、津軽地方の支配権を認められていたから。
江戸中期、江戸の庶民の平均年齢は53歳だったそうな。それに対し、大名・公家の平均年齢は46歳だったそうな。大名や公家は近親での結婚が多かったので、医学的に遺伝的変異が現れたりする可能性も指摘されていますが、なにより「ストレスの多い環境」が原因だったともいわれています。
本買おうかな
流石に戦闘集団同士の喧嘩だと死人も出るよなぁ…
ご感想をいただき有難うございます槍を忘れるというのは、結構なやらかしではありますが・・・ちょっと厳しすぎる気がしますよね。
武家の言い回しだと「一戦交えても良んだぞ」とおいう意味らしいです。席を譲ったときに武器や刃物を置いたり、箸を立てに向ける場合。昔の時代劇だと、それが切っ掛けで斬り合いになる.と言う演出もありました。
@@colocalo100 さんへ、車の左側通行も、武士が左側歩行だった名残りらしい。(刀は左腰に差す。右手で抜き易いように) すれ違う時に、刀同士ぶつからないように。
@@Kマサヒロ-w6l それは知らなかった。勉強になりました
@@Kマサヒロ-w6l 武士由来説や、イギリス追従説は通説化してるが根拠がない。実際ハッキリしているのは車(馬車等)が日本で走り始めた頃、明治14年に左側通行にしましょうとお触れが出たことだけ。
6分過ぎの加賀藩<<<綾部藩は逆ではないでしょうか?
いつも勉強になるし、何より面白い!!
こういう話はやはり面白い
前田家は大大名なのに、小さな大名に宿を譲るなんて、当時のご領主の器も大きかったのね。
前田家は大大名だったけど、外様だったからそれも影響したのかね?
次期によってはガクブルで譲ったのかもしれません。当時は田沼時代でしょうから。綾部藩5代藩主九鬼隆貞の娘は、田沼意次の息子と結婚しています。5代藩主が亡くなったときに跡継ぎは当歳の乳児。田沼の息子が当歳の跡継ぎを養嗣子にして、6代藩主九鬼隆棋となりました。今を時めく老中の息子の義理の父親ですから、前田家としても事を構えたくはなかったのかと
@@colocalo100 凄い分かりやすい裏事情、ありがとうございます。当時の田沼の権勢は、本当に凄かったんですね。
大大名すぎて揉め事は避けたかったのかと。外様ですが家格としては御三家御三卿に近い。それ故に、参勤交代も数千人というトップクラスなので宿変更はそれはそれで相当面倒(宿場側としても)ながら、かち合って揉めていてはたちまち街道が大渋滞してとんでもないことになってしまうので・・・。こういうことがあるので、行程管理をする家臣は超優秀な人が務めたそうです。
この殿様は末っ子で若い頃は僧侶だった。でも兄に子どもがおらず他の兄弟も亡くなったから跡をついだ。だから謙虚だったのでは?
相馬藩と会津藩の陣屋での喧嘩は現在の福島県の浜通り・中通り・会津の三分割状態の一種の断絶関係の一端を垣間見ているようで面白い
九州から見ると浜通り、中通りなどは単なる天気予報の区分けかと思っていました。裏にそんな事情がありましたか?勉強になりました。
大名の陣屋の中にはせめて見た目だけでも城にしたいと思ったのだろう天守閣のような作りのものもあったそうだそれだけ城持ちの大名とそうでない大名とでは差がつけられていたらしい
熊谷宿は、くまたにやどじゃなくて,くまがいじゅくですね。
5:28 この前田の殿様は末っ子で元々僧侶だった時期があったから謙虚だったのかな?
それもあるかもしれませんね。彼は末っ子だったために本来ならば家督も望めない、かといって部屋住みも・・・。ということで出家する道を選んだのでしょう。しかし、跡を継いでいった兄たちに不幸が続いたために、兄の命で還俗。いわば「棚ボタ」で藩主の地位に就くことができたのですね。僧侶として学んだことは、彼の心に多大な影響を残していたと考えると、なんとも感慨深いですね。
江戸時代末期は、町場だけ大名行列をして、予め人手を業者へ依頼し、船を利用しお金を節約したのでないでしょうか?
そうだと、聞きますね。 例えば東海道なら、(他国の城下町中だけ、下っ端の人数を雇って決まった人数を、合わせたらしい)
バイトを雇っていたらしい…と、何かで読んだ事があります。そんなに余裕なさそうですもんね、どこも。
先頭じゃ間に合わないだろうから先ぶれを出して「偵察」してたんだと思う。しかし100万石の加賀藩が気を使って譲ったってのは流石だと思った。器が違うw
大名でも新田藩といって領地を持たず本家から米を支給されるだけの大名も存在する。だから、そういう大名は水戸藩みたいにだいたい江戸定府。
サラリーマンみたいなもんですね まあそのほうが旗本退屈男みたいで気楽かも。
@@shigesans1 ただし領地は無くて家臣も本家からの出向でも江戸屋敷はあり、決められた日に江戸城に登城しないといけないし、本家の当主が幼いと後見をしないといけない場合もある。
@@yh6146 ふーん、雇われ店長みたいなもんですな。
1万石大名でも知行地が纏まっていないところもあるんだよね自分の地元の1万石大名がまさにそれで5000石+5000石で陣屋は2軒持っていました藩名は集落規模が大きい地名からとられます場所的に数キロしか離れていないのが幸いのようですが、とびとびの知行地のせいで脱出不可能な万年赤字財政だったと聞いています
11:47の画像とか大政奉還の画像とか見てると、大名たちの加齢臭がすごいんだろうな。上座に居る将軍はさっさと儀式を終わらせたいだろうw
6:00 不等号の向きが逆では?
数学的には3つ以上の不等号記号は無意味だから不等号のつもりではないのかもしれないけど、少し違和感がある…。
江戸時代のお姫様の1日とか、お願い致します。
津軽藩は本来認められない江戸時代に城の新築(落雷で天守閣が爆発炎上)が認められた珍しい例(辰巳櫓の改修名目)家康の養女満天姫が輿入れしていた歴史があるのでわりと初期からこっそり優遇(弘前城築城の際に作業員確保の手助け)されたりしていた。
表が面白い。国持大名がデューク公爵とマーキス侯爵、城持ち大名がカウント伯爵、城なし大名がバイカウント子爵とバロン男爵といったところやな。西洋の封建貴族制と日本の江戸幕府はなんか似ている。
普通に考えたら本陣を譲った側が槍を忘れるはずだし小藩が大藩に向かって「首を持ってこい」というはずもない気がするので逆じゃない?と思ってしまった
禄高もですが譜代か外様でも違いはあるでしょ。譜代であれば幕府の要職にもつくわけでそうなると禄高だけでもないと思います。それと関東の要職につく譜代の大名は参勤交代がそもそもあったのでしょうか?ほぼ江戸詰めのような気がしますが。
旗本についても動画にしてほしい。
いつも楽しみに観させてもらいます😃私が通った小学校の石垣は昔の陣屋の後と聞いたけど‼️城無し大名の一人だったのかも😏
私こそいつも有難うございます。陣屋跡が小学校になったのですか(*゚Д゚*)それは素敵な小学校だったのでしょうね。
陣屋跡が学校や役所になってる例は結構ありますね群馬県の「七日市藩」前田家(加賀藩分家一万石)の陣屋は今の富岡高校、大戦末期には陸軍中野学校が移転して、間借りしてます喜連川陣屋も、後に喜連川町役場になってますし
@@偉人はつらいよ文化歴史紹 いつも、ありがとうございます😃丁度、肥後と筑前の県境になるので太鼓橋を渡ってました❗️五十年以上前の事ですがいろんな事を思い出す、面白い動画に感謝します\(^_^)/
陣屋跡が小学校はうちの市内にもあります。常陸谷田部藩の陣屋で、陣屋の門が小学校の向かいに残っています。谷田部藩は細川忠興の弟興元が初代です。
>>の記号間違いする人多いんよな。特に若年層に多い。A>>BではAがBよりかなり大きい事を示す記号です。でも動画は面白かったので高評価しときました。
あと、表高が無高ながら古河公方の流れを組む喜連川藩なるものもありましたね。実高は4500石なのに10万石の大名格で、確か明治維新まで続いたそうです。
喜連川藩の話も面白いですね。
@@北の独居 喜連川藩は成り立ちから毛色が違っていて本当に面白いです。
大名扱いなのに参勤交代も手伝い普請の義務も無い。大名なのに官位を与えられないけど、勝手に官名を名乗れた。でも、官位が無いから、江戸城での礼服は平旗本と同じ。それなのに徳川将軍以外で唯一御所号を名乗れた。身分が高いのか低いのかよくわからない。
@@yh6146 喜連川藩の殿様は、どんな日常を過ごしていたのか気になりますよね。
喜連川藩の最大の収入源は 宿場に泊まる参勤交代の大名とか特に大大名の仙台藩 もし泊まらなければ江戸城内でチクリと嫌味をいったそうだかつての古河公方様でもありそう簡単に無下にも出来なかったとか
大名行列は、映画参勤交代リターンズとかでなんとなくのイメージが湧く。
肥後の細川藩は、福岡,黒田藩と、仲が悪く(後藤又兵衛や、宮本武蔵の件で)参勤交代の時、阿蘇越えして、大分から、船で大坂に向かってたらしい。
下野喜連川藩も例外では?4500石は特例と以前友達から聞きました因みに、大名の定義は10000石です
4500石なのに10万石扱い。しかも大名扱いなのに参勤交代もお手伝い普請の義務も無かった。初期は江戸城の控えの間が加賀前田家と同じだった。大名なのに無位無官だけど左兵衛督や左馬頭を自称できた。でも武家官位は無いから江戸城での礼服は平の旗本と一緒。
二人のー会話ー話し方ーーー楽しいーー上手いー🍁🍁
母校の校歌の歌詞の由来をここで見るとは………。(笑)
まるで、現代の中間管理職みたいだな😂😂😂
とても面白かったです♪😊お城を持たないお殿様もいるかもしれないと思ってはいましたが、想像以上に多かった!参勤交代のニアミスも確かに多かったでしょうね…先頭の家来の人の役割はかなり重責ですね。
参勤交代は、途中通らない駄目な場所。と言うの幾つか決められていました。なので、その前後ではニアミスするのが当然だったそうです。西国大名は出府の際には「大坂城代」「京都町奉行(と御所)」「駿府藩城代(城番)」への挨拶が義務づけられていました。幕府直轄の重要な場所です(駿府藩は、元大御所直轄領だったため) 当然、その場所の前後ではニアミスが起っていたそうです(大阪と京都は、各大名が蔵屋敷や京屋敷を構えていたため、街道筋の橋や渡し場でかち合った)
「やりすぎだろ!!(槍だけに)」
うま~~~い。座布団3枚ね
中国との和平の時に幕府から謝罪をもらってきてくれと言われたのでもらいに来たらあれは豊臣がやったから知らないと言われた。なので謝罪文を偽造して出したという外交官がいたな。まあ、それがバレてもまあ、嘘もほうべんと笑って許した幕府がすごすぎ。豊臣秀吉なんてキレて戦争だからな。
相馬藩は、伊達が謀反起こすのを想定して家康から先鋒を務める事を申し付けられてた。相馬と伊達は犬猿の仲だったからね。でも、相馬藩は表高七万石伊達は六十二万石太刀打ち?その代わりに近隣の代官地を相馬藩に預けたのね。その預かり地合わせると二十三万石だったのね。他にも家康から先鋒を申し付けられてた藩は島津に対しての伊東家これも近隣の代官地を預けられた。毛利に対しては亀井家此も四万四千石だが石見銀山任されてたから裕福だった。
根回し文化なのに参勤交代で出会う出会わないってあらかじめやりとりしなかったのかな。偉い方を先に行かせとけばもし足止め食らっても手前で待機できるじゃん。
江戸時代は米が貨幣と同じ役割、石高を重視していた幕府は外国との取引でコメが使えないことと、鎖国が原因で最新の外国製品を購入できなかった、薩摩や長州は早くから海外の脅威に気づいていたのと、関ケ原以降、長年徳川に恨みがあった、各藩は国、大名は各国首脳のようなもの、各国石高(GDP)は違うが国連のような江戸に、大名に金を使わせる参勤交代、入り鉄砲に出女、、兵器の移動、人質の移動を制限したのも良い、徳川家の政策は現代でも通じるような気がする、お城は今でも維持管理が大変なので、城がない平屋に住んでる大名のほうが楽そう
ざっくり江戸時代は、武士は金を持っていなくて米しか持っていないから貯蓄はできない。金を持っているのは商人、職人。士農工商を身分制度だとするなら、上位の士農が金を持っていない。
藩に一大事があれば 切腹する役目の家臣がいたとか聞いたことがある
中山道の熊谷(くまたに)ではなく、(くまがや)です。
幕府旗本「儂等も殿様やぞ」
確かに殿様は旗本以上の身分を指す。大岡越前も鬼平も遠山の金さんも殿様。
@@yh6146 あと、深見新左衛門も…(落語 真景累ヶ淵の登場人物)
俺は徳田新之助、貧乏旗本の三男坊だ、め組に居候させてもらってる
@@fw11bred5 ちなみに吉宗が名乗った新之助は子どもの頃の名前。
主はなんでも知ってるな〜 しかもおもしろくわかりやすくまとめてくれてるってことは、この動画の
お、これはイメージだけで終わらないために大切な話ですね。知らん事もりだくさん、ありがとうございます(*'ω'ノノ゙P.S. 個人的に、マイナーな新撰組隊員の話とかも聞きたいなぁ。
嬉しいご感想をいただき有難うございます。新選組・・・どうしましょうかね・・・(;´∀`)
@@偉人はつらいよ文化歴史紹 あ、いえ、無理に取り上げんでも大丈夫ですよ(笑)
八代将軍吉宗の時代に、ロシア船が日本近海に出没。幕末になると、根室にロシア船が来たとか。
6:40 ここのやばいものを見たかのような表情でマジかよと言っている萃香ちゃんは可愛いから是非とも見てみてね。
アイヌが本格的に弾圧されるのは明治以降なれど、松前氏による収奪も甚だしかったから、内地に転封しっ放しでも良かったのかも… まぁ幕府が結局蝦夷地を持て余し、松前氏に返してしまったということ。
ご感想をいただき有難うございます。私が読んだ本で、アイヌたちがしいたげられるのは明治以降というのは知っていましたが、江戸の松前藩もなんですか・・・
松前家中の家臣は、禄高がない代わり、商場知行制と言って、アイヌとの交易(まぁ、買い叩き)で賄っていましたから。それを一部の商人に請け負わせた場所請負制になってから、益々ひどくなったようで。
これまた面白そうな本ですね。お殿様といえど一歩国を離れれば格付けの世界に揉まれる事になりますが、だからと言って変な上昇志向を持つと家臣も領民も大迷惑。無事これ名馬ではないですが、名君ほどおとなしく無難に過ごしていたでしょうね。
変な上昇志向で回りに迷惑を掛けたのが水野忠邦。家臣の諫死を振り切って実入りの良い唐津から幕閣に成りやすい浜松に移封。天保の改革については、多く語る必要無し。
当時は無高の蝦夷地が今は最大の米の産地という皮肉。
ご感想をいただき有難うございます確かにそれは興味深いですね。
そして近年では実は一番美味しいという話
@@S_McQueen 新潟コシヒカリでは無いのか。
@@yh6146 確かに美味いのは、新潟、福島、秋田と言われてる。農水省は北海道にはあまり米を作って欲しくなくて、何かにつけて北海道の米のランク下げる策を取ってるらしいが、実は北海道の米一番美味くね?って噂がある。近年の温暖化と品種改良、そして肥えた土地ときれいな水のおかげらしい。と米屋が言ってた。ほいで北海道米買ってみたんよ、確かに美味いような気がした。
@@S_McQueen 多分農水省は減反したいから、最大の産地にいちゃもんつけている。減反なんて馬鹿な政策しないで余った米を輸出すればいい。
こんばんわ🎵お疲れ様でした🙌❗ん~~~~😞💦こんなに格差があったなんて知りませんでした😰殿様も色々だったのですか…🤔勉強になりました🙇
(*´∇`)ノ こんばんは~いつも嬉しいご感想を有難うございます。私もお城に住んでいない殿様がこんなにいたとは知りませんでした(;´∀`)
国持大名と言われるものがいわゆる1国の主。しかし伊達仙台藩など1国全体ではないが大きな石高 (10万石級以上) を持った大名も国持大名として扱われたそうな。
大身国持ってやつな
…参勤交代の制度を命令したのは幕府で、その命令遂行の為のトラブルや衝突が大名間にあって大名と大名の対抗意識なども少なくないでしょう。発令者の幕府として、そのトラブルに対する調停は充分だったのでしょうか? 大将軍や幕府は日本の軍を統べるのが務めで、大隊と大隊の間で起こされる問題は無視できないはずです! それに家康は日本の秩序を作り守る目的があったはずです。これは大きな問題ですね!
対馬藩は肥前に1万石の領地があったから無高では無いはず。まあ、対馬島の石高は4500石だけど。
ご感想をいただき有難うございます。それは本に書いていましたね。最初は無高であったが、途中から肥前や下野を与えられて3万石になったとありました。
槍の件、名前忘れたけど映画があったね
今も昔も大変なんだ😢
確か一番トップであるはずの征夷大将軍も慣例やら保安上の都合でご飯は毎回冷めてる上に油っ気が殆ど無い飯しか食えなかったんだっけ
昭和天皇陛下も、戦前は暖かいご飯やお汁は、ほとんど食べた事なかったらしい。 だから、皇室(直系)は、猫舌だらけだとか?
@@Kマサヒロ-w6l その話は知らないけど明治天皇だったかな?が納豆が食べたいって所望した時に、その江戸時代の慣例の名残(身分の高い方に脂の乗った物や粘りのある物を出すのはNG)で納豆をどう出せばいいか悩んだ末に洗って粘りを取って出したって話がありますね
@@Falken0014 さんへ、落語の「目黒のさんま」だな。笑
@@Kマサヒロ-w6l まぁあれは流石に作り話だろうけど、アレが洒落にならない位には近い状態だったらしいからね・・・パッサパサ&冷めた焼き魚しか喰えなかったのは事実らしいからねぇ・・・
実際、幕末で下級身分の出身者が活躍したのは、逆にそういう身分の方が、玄米or雑穀飯+加工されていない新鮮な山海の肉類&魚介類という、ビタミンとタンパク質と脂質が豊富な「下手物」や「粗食」をふんだんに食べられる身分だったという事が大きいみたいですね。偉くないからこそ規制がなく、自由に何でも食べられて、元気に働けたという訳ですね。
面白かったです~~。そして勉強にもなりました。松前藩、松前漬けでなんとかしてもらえればよかったのにね。あと、ラッコとか昆布とか、ああ蟹もっ!。←無知ですみません。
嬉しいご感想をいただき有難うございます。北海道には美味しい食べ物が沢山ありますものね👍将軍に献上しておけば・・・
昆布はともかく、蟹を、食える状態で、北海道から江戸まで、どうやって運ぶ。笑
ラッコの毛皮は俵物以外の流通品だったはず
@@シュウ-y2p さんへ、オットセイのセイは、臍(へそ)て字だけど、男性の竿の意味で、乾燥して強壮剤用に(今で言う、◎ンポ用、バイ◎グラ)輸出されてたらしい(中国向け)
一万石でも、美濃苗木藩遠山氏は城持ち大名。三宅氏も城持ち大名。槍の鞘、駕籠の簾の色、屋根の色等で行列の先見役は三百諸侯の槍の鞘、駕籠の姿形を暗記しなければ為らなかった。相馬中村藩は、平将門直系だけにプライドは高かった。本分は外様だが、対伊達対策で徳川準普代に為ってたしね。表高六万石だが、伊達対策で近郷の代官領も合わせて預けられていて、実高は二十三万石でした。相馬と伊達は戦国時代から犬猿の仲でそれを家康が利用した。他にも対島津で伊東氏、対毛利で亀井氏と家康も考えてる。対前田には甲府勤番を行かせてたしね。他にも武田遺臣の八王子千人同心、神主、地侍にも念書を贈っていざと言う時には甲府城に入る事を約束させてる。その替わり田畑には税を掛けなかった。田んぼは名田、畑は手前造りとしてね。
国持大名が20家、その国とは? 藩(領)とは?
槍を忘れたのは会津藩なんですか?本陣移動の際に相馬藩が置き忘れたのではなく?…と思って調べてみたら『文化秘筆』と『半日閑話』で加害者被害者が真逆になってるんですねこれだから歴史は興味深い
前田藩に遠慮された綾部藩、顔面蒼白で詫びいれたんでしょうね・・・
青くなったのは前田藩かも。当時の綾部藩主は、5代か6代。 6代は婿養子に入った人で実父は田沼意次。5代は実子ももうけますがその年に死去。6代が5代の実子を養嗣子に迎えて跡を継ぎました。
@@colocalo100 あーなるほど、それで遠慮したのかもしれませんね。それはそれでいろんな事情が見えてきて面白いですね。
「そうせい」だけ言って暮らしたい
旗本は悲惨だったと思うな…金なし、地位なし、ナメられる(`・ω・´)そして子孫が「この私、ヒモ」なんだから
旗本より悲惨なのは御家人 カネなし地位なしナメられまくりの上長屋住まいがほとんど 名字帯刀程度しか特権無し あげくに石高何万石だ何千石だなんて夢のまた夢で現実は何十俵取り程度
城は使節?城は施設じゃないの?
前田は外様の大藩だから絶対いざこざは起こせなかった。何を理由に減封されるか分からない
前田利常は江戸城敷地内で堂々と大小便して黄金一枚置いて立ち去って(ここで大小便為す者黄金一枚の罰金に処す趣旨のタテカンあり) 「黄金一枚出せば気兼ねなく出したいものを出せる ならば黄金一枚出そうじゃないか」とイヤミ言い放った気骨ある当主だよ
大河ドラマ八代将軍では前田綱紀が老中を呼び捨てにしていたけど、しかも老中も前田様と呼んでいた。
漢字の表記ミスと読みの間違いが多いな。気にしなければ、気付かなければそれでも可。面白いよ。
加賀が完全に別格だよなあ色々合わせると前田は最大125万石で二城持ち、白書院挨拶だもんなあ
正妻と嫡子は江戸在府ということは、全国の殿様はみんな江戸育ちということになるよね?
安倍晋三や麻生太郎と同じだね。
ここにもコロ助の影響が(^_^;) 江戸の流行病についても知りたくなったですw
ご感想をいただき有難うございます。当時の流行り病は、とんでもなかったと聞きます。良い本を探しておきます。
朝鮮出兵というより唐入りの方がしっくりくるかもね。あと特殊なお殿様としては喜連川藩のような特別な場合もあったりします。興味が沸いたらぜひ~♪
現在中2なんですが、教科書に載っていない事が沢山あって面白かったです‼️
面白かったです♪ 「一国一城の主!」って言えないお殿様、多かったんですね、現代と同じみたいwww
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
そのようです(笑)
私も含め、殿様といえばお城に住んでいると思っている人は多かったはず(笑)
@@sakatosu6817 陣屋があるのは、まだましで新田藩という大名は本家から1万石以上の米を支給されているだけの大名。だから陣屋どころか領地が無い。米沢藩の分家の米沢新田藩の場合に藩庁が米沢城二の丸で江戸屋敷も米沢藩の江戸中屋敷の一部を間借りしている。
1.5倍速で聞くと丁度いい感じになるぞ
参考文献読んでみようと思います、興味津津。
任期の半分を江戸で過ごす大名は江戸城に出勤して命令を待ってたり役職をあてがわれたりしてたようなので「大名の江戸生活」も面白そうですね。
幕府要職に着く
譜代大名は
石高はあまり大きくなく
彦根の井伊が唯一30万石見たいです
更新の影響に、図書館の休館。こちらもリアルだな。
大名行列、山口の岩国の錦帯橋で大藩の行列と岩国藩(幕府の命令で城無しにされた)の行列がかち合って一騒々あったというのが説明板に書いてあったのを思い出しました。
道を譲れと言う大藩に
岩国藩は槍を立てて、見送ったそうです。
そもそも岩国は吉川広家の末裔で関ヶ原の因縁で本家毛利家のせいで大名扱いされていない。だから官位も無いそれなのに参勤交代しているという矛盾。
今日も動画ありがとうございます。
大名は、参勤交代とか対幕府の関係でも大変ですけど、対家臣、対領内でも大名の好きにできたわけではないんですよね。藩の慣例を無視したり、家臣の意見を無視するような大名は押し込めの論理で隠居させられたりしますし。そこら辺、笠谷和比古著「主君「押込」の構造」とかに詳細が載っています。
いつも嬉しいご感想を有難うございます。
江戸時代にはバカ殿なんて言われる殿様もいますけれど、実はそれは普段のストレスからだったのかもですね(笑)
あの名君上杉鷹山公も改革を重臣が理解せず、危うく押し込めになるかもしれなかった。
@@yh6146 そうなんです。上杉鷹山に限らず、改革しようとして押し込め、隠居させられた大名とかの例も本では言及しています。
しかも、生来からの「バカ殿様」ばかりではなく、最初は英明な殿様だったのに、突然豹変してしまう殿様もいました。水野忠辰(ただとき。三河岡崎藩6代目当主)は、藩政改革に熱心なお殿様で、質素倹約(むろん自分も)や能力のあるものを昇進させて重役に取り立てるなどの改革を行ったり、俸禄の前借や藩士の借金の肩代わりを行うなど、開明的な政策を行っていきました。しかし、保守派の家老に妨害されて政策がうまくいかなくなるとやけっぱちになったのか、これまでの質素倹約はどこへやら、遊興にふけって悪政を行うようになっていきました(息子の豹変ぶりに生母順性院は諫言を行いましたが忠辰は聞き入れず、彼女が諌死してしまうほどでした)。その後もその態度は治らず、結局家臣総合意のもと、彼は座敷牢に押し込められました。上杉治憲(鷹山)公も座敷牢に閉じ込められましたが、彼は恐らく、改革に反対する家臣たちと腹を割って話したのでしょう。だからこそ、あの難しい改革を成功へと導くことができたと私は思っています。
籠に乗っているとき、大名同士の挨拶は同格、格下くらいなら籠のなかで挨拶するくらいだが御三家、将軍家なら降りて平伏しないといけないから大変だよ。
当時の大名の多くは莫大な額の借金を抱えていて、徹底したきつい倹約生活をしていたところも多いという話もありますし…。少なくとも、現代人が想像するような悠々自適な生活とはかけ離れていると思います…。
ちなみに、明治維新の時、版籍奉還や廃藩置県に大名たちがすんなり応じたのは、借金を明治政府に肩代わりしてもらえるかららしいです…。
結局は肩代わりした明治政府は踏み倒して、両替商の大半を倒産させる暴挙に出ますけどね。
@@shibamofumofu4983 そして、最大の借金が薩摩藩。20数年前に500万両の借金で毎年2万両の返却だからまだ400万両以上借金があったはず。
@@yh6146 さん
明治新政府といっても、実体は薩長連合幕府ですから(汗)
@@yh6146 薩英戦争の賠償金も幕府に立て替えてもらったのに踏み倒しやがったしなw
確か六万両だったか
@@haku3492 薩長が色々ヤラカシタ結果、倒幕して政権盗ったのに幕府の金蔵は空っぽで財政難。
佐々木蔵之介さん主演の映画
超高速参勤交代 を思い出しました。貧乏大名が知恵を絞り、超高速で江戸まで参勤交代をやってのけるお話です。
現実のお殿様もなかなか御苦労あそばされておられたようですね。
ご感想をいただき有難うございます。
その映画、観よう観ようと思いながら中々見れていません(´;ω;`)
Amazoプライムでと思っていますが、いつになるやら・・・
Amazon primaでみれるのであとで見てみようと思いますわ
参勤交代も大変ですよ。幕府に指定された日までに江戸に到着していないと、処罰対象となり、改易もあり得ました。それだけならばまだしも、動画にも登場したように他の大名家と鉢合わせになれば、(くだらないことだとは思いますが)意地の張り合いで流血沙汰なんてこともあり得るでしょう。それにしても、相馬藩の家臣もよくもまぁ、会津松平家という親藩の一角をなす大名の家臣に喧嘩を吹っ掛ける勇気がありましたね。まぁおそらく相手が親藩だとはわかっていたとしても、嘗められまいと戦いを挑んだのでしょう。
1回くらい1話完結のオムニバス大河ドラマの年があっても面白そう。
50藩くらいだったら、なんとか絞り出せば話はあるんじゃないかな?
「鉢植え大名」なんて言葉があるくらい、大名の国替えも多かった。
星野源さん主演の「引っ越し大名」では、国替えの悲喜劇が描かれていて面白いです。
ご感想をいただき有難うございます
実は似たような引っ越しする大名についての本がありまして・・・狙っています(笑)
モデルの大名が越前藩の分家当主で家康のひ孫の松平直矩(なおのり)。実際に5回国替になっているし、途中で親戚の御家騒動の巻添えで15万石から7万石に減らされて15万石に戻ったりした。ちなみに父親も3回国替になった。
他藩でも引っ越し費用不足で
幕府から借り受けた殿様もいる
@@CHOCOBOLIAさん
借りるどころか、お金がなさ過ぎて引越命令そのものが撤回された事もあります。
始めて聞いた話が多く面白かったです。半分も城なし大名がいたり、石高なしの殿様までいたとはびっくりでした。それもよく聞く大名で驚きました。参勤交代制度は大名の財力を削ぐのに成功していたと言うことですね。大名行列も大変気になった行事だったんですね。ますます興味を唆られました。面白い動画有難うございました。
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
大名って殿様というイメージが先行して案外知りませんよね。
私も今回良い勉強になりました。
大名と言っても確か200人くらいいたな。
江戸時代は一国一城制度がとられてから、旧律令制度の国には一つの城しか許されなかったから
当時の国の数は70-80ほどだ
有力大名の中にはほぼ三国を領有していた加賀前田藩のように二つ以上の国を領有していた大名もいるし
それを考えると、城をもった大名は半分以下だと思うが
ちなみに一国一城の主とは、まさに律令制度の国を一つ以上もちさらに城をもっていた。大名の中でも特に有力な国もち大名のことだな
@@御神誉黎 加賀藩でも城は2つ。そして外様で最大が久保田藩佐竹家の3つ。徳川一門で紀州藩が5つ城があった。まあ、その内2つは幕府からの附家老の城だけど。
サムネの絵すごいですね。
老中や大々名などが該当する四位以上の黒。一般的な大名や大身旗本の五位の赤。その他大勢の、布衣(六位)の緑や無位無官の無地。
きっちり厳格に別れてますね。
興味深いお話を動画にUPしていただきありがとうございました。城無し大名は「御鑓拝借」おやりはいしゃくで存じていましたが、石無し大名というのがあったことを初めて
知りました。大名を名乗る以上それなりに見栄もあるでしょうし、どの世界でも下級何とかというのは肩身が狭くつらいものですね。
大名行列同士が遭遇した時に御三家と遭遇したら大名でも土下座しないといけないというのがなかった。
ゆっくり藩はやっていたな。
投稿お疲れ様です。次回も楽しみにしています!
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
図書館の閉鎖はマジできついっすね
頑張ってください……
昭和にはアメリカ大ネズミが浦安で城持ち
…会津藩は幕末の諸々も含めて強烈だなぁ
1分43秒付近から表示された一覧表に、一部誤り(誤字)があると思うので書きます
正しくは、国主大名(一国一円支配と、大身国持(陸奥仙台伊達家、出羽秋田佐竹家など)の2種類がある)、
准国主大名(準国主大名と書かれる場合もある)、城主大名、
城主格大名(陣屋大名から上がっても、城の基礎部分を石垣造りに改造することは許されない)、
陣屋大名(城主大名以上は領地と呼ぶのに対して、陣屋大名は「在所」と呼ぶ)、の5種類です
動画アップ主様への、参考程度まで申し上げました
本陣ってあちこちあるね。参勤交代のお泊まりだけかと思ってました!勉強になった!ありがと😉👍🎶
わたしは兵庫県の中部で1300年頃から地元にすんでいる元は武士の家系です。
色々言い伝えがあり、その中でも江戸時代に幕府領と藩の境目に住んでいたので、幕府の偉いさんや、藩のお姫様が家に遊びに来ていたとお爺さんから聞きました。
小さい時は特に気にもならなかったのですが、大人になり歴史を学んで行く上で、まぁまぁすごい事なんだと気づきました。
唯一「一国一城令」の例外があって、肥後藩は本城と別に出城(八代城のちに麦島城)を作ることを許されてた。なぜならその南側があの島津薩摩だったから
ところが、廃課金トップランカー要塞仕様の熊本城と普通の城なんて2つも抱えてたから肥後細川は「鍋底に細川の字を書けば金気が抜ける」とまで言われた貧乏藩主に(細川さんは泣いていい)
最初の方、越中の氾濫した川、片貝川(かたかいがわ)です。
一万石ぴったしの陣屋大名だと「国持大名が羨ましい、次に3000石くらいの大身旗本が諸役もなく裕福で羨ましい」と言うのが本音だったかもしれませんね。
江戸時代
最大石高
「加賀100万石」だから
全ての大名行列で譲らなければ
ならない❗
@@原田慎也-d6y
加賀前田家は外様大名とはいえ。大名の中でも別格の扱いを受けていたが
しかし大名の頂点に立つのは徳川御三家であり、加賀前田家はそれに次ぐ位置づけですね
大名のランクは石高で決めるのが妥当だが。
それではどうしても幕府の政治的な思惑とは一致しない。
御三家を大名の頂点にしようと思えば、少なくとも前田家と同等の百万石以上の大名にする必要があるが
そうなれば御三家が力を持ちすぎて、徳川宗家に対抗する勢力になりかねない。跡目争いなどで内紛が起こるだろう
さらに幕府の要職につく大名も、外様大名から選ぶ必要が出てくる。石高は外様の方が多いのだからな
しかしそれでは譜代が無視される事になる
そういうわけで、苦肉の策として、官位で大名のランク付けが行われていた。
尾張徳川と紀伊徳川は大納言で水戸徳川は少納言、加賀前田家は左近衛少将だったかな?
そして例外的に鷹司松平家は摂関家の鷹司家の分家であり徳川の親藩ちう特殊な立場から、一万石の大名ながら御三家に次ぐ扱いを受けていた
こんな具合に幕府での大名としてのランクは官位でバランスをとっていた
なんでも三万石以下は大名ではなく「小名」と呼んだそうです。後世「名奉行」で名高い大岡忠相も、晩年には旗本から陣屋大名に昇っています。でも前からの大名たちに差別されて同じ部屋に入れてもらえなかったとか。身分制度の時代は今よりも酷い“いじめ”があって、為に刃傷事件まで起こっています。現代でも全く進歩していませんね…
今回も勉強させてもらいました。また次回も期待しています。
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
はい、大岡越前の例も載っていました。
殿様と一口にいっても本当に様々ですね~。
柳生十兵衛の柳生家も、小名⇔大名を、繰り返したらしい。
有名なのは、藤堂高虎公の功績で、藤堂家は伊賀・伊勢2カ国の大名になったと言う話もある。
外様大名は、主要地域から離れて置かれているものの、藤堂家が治めている地域は近畿地方の京都・大坂から近いのも珍しい。
また、後に江戸幕府八代将軍であった徳川吉宗公も紀伊藩主時代、格式など大変ではなかったのか?
大名の半分は城を持ってなかったんですね。肥後細川藩の2城持ちは例外中の例外だったのですね。
伊達も青葉城と白河城、佐竹も秋田城と横手城、蜂須賀も徳島城と洲本城、前田も金沢城と穴水城。
@@吉野正洋-k5g 白河小峰城は1867年(慶応3)以降二本松城主丹羽氏の預かりで、即幕府消滅
穴水城は1583年(天正11)に廃城、
だけど佐竹と蜂須賀は2城持っていたんだね!
蜂須賀は淡路加増時に洲本城が付いてきた感じだね
佐竹は幕府にお願いして横手城を残したのか
7:49槍だけに「やりすぎ」って駄洒落?
幕府の大名統制、まじでうまく考えてますよね。
御三家、親藩、譜代、外様大名
江戸城内の詰所
国持~無城大名
官位
松平あげます
これらで微妙に差をつけてるのがすごい。1万石でも苗木藩みたいに城持ちいるし(まあ、城がラピュタの小屋みたいですがw)、10万石でも大聖寺藩みたいに無城……(城壊してたからというアクシデントで21万石でも無城の久留米藩有馬氏も一時期いたが)
ちなみに、松前は最初無高だから客将あつかい(しかしアイヌとの独占交易権はずっともらってた)、つぎが1万石格、その次は3万石格(田沼時代にはすでに3万石格)で、そこから梁川にとばされ、松前周辺だけ戻され、また本州にとばされ(このとき東北の適当なとこに3万石与えられるが、東北の大名たちから差し出させたとこばかりなのでろくに米が取れず、また幕府に泣きつき、領地でなく年金をもらうようになる…)という変遷です。
最初の無高は当然大名扱いされず、梁川時代も9千石だからやはり指摘通り大名扱いされず……ですが、あとは(梁川から戻され本州にまた飛ばされるまでの時期は不明ですが)ずっと大名扱いされてます。
会津の松平すごいですね。相馬が悪いが、担当の家臣を殺し相馬の連中も殺すとか、、、血の気が多いというかなんというか。会津は養子が多いから家臣統制しづらかったのでしょうかね?
大名家も石高だけではなく、官位もありますので。
参勤交代の大名行列も、正式には軍事行動ですから、古来から行列の2〜3の先の宿場に物見を出して、他の大名家の動きを調べていましたが。
会津藩はニ代将軍の男子の家系ですので、家格としたら御三家に近い存在でしたし。
幕府も、有力大名家には気を使っていましたので、江戸城松の廊下での刃傷事件の取調べでも、浅野内匠頭に対して大目付から老中まで、芸州浅野本家に対していろいろと気遣いしている記録がありますので。
津軽氏と南部氏は仲が悪すぎたので参勤交代の年をずらした上で江戸の藩邸も南部氏が山の手、津軽氏が下町と離れた所に置いて家来同士が江戸市中でかち合う事も無いようにしていた。又、津軽氏は参勤交代では南部氏の領内を通らなくて済む羽州街道経由のルートを使っていた。
その二つを青森県で一つにした薩長酷すぎ
@@ユッキー-g1y 薩長じゃなくて会津由来の議員さんが松前県としてひとつにしたらしいよ
南部氏と仲が悪かったのは伊達氏だけかと思ったら、津軽氏もだったのですね。
@@伊藤健一-g2y
津軽氏と南部氏の遺恨は津軽氏と伊達氏の遺恨の比では無かった。津軽氏は元々南部氏の被官だったけど、1570年に南部氏の後継者争いに乗じて当時の南部氏領屈指の米どころだった津軽地方を奪って独立した上に、豊臣秀吉にも南部氏に先立って臣従し、津軽地方の支配権を認められていたから。
江戸中期、江戸の庶民の平均年齢は53歳だったそうな。
それに対し、大名・公家の平均年齢は46歳だったそうな。
大名や公家は近親での結婚が多かったので、医学的に遺伝的変異が現れたりする可能性も指摘されていますが、
なにより「ストレスの多い環境」が原因だったともいわれています。
本買おうかな
流石に戦闘集団同士の喧嘩だと死人も出るよなぁ…
ご感想をいただき有難うございます
槍を忘れるというのは、結構なやらかしではありますが・・・
ちょっと厳しすぎる気がしますよね。
武家の言い回しだと「一戦交えても良んだぞ」とおいう意味らしいです。
席を譲ったときに武器や刃物を置いたり、箸を立てに向ける場合。
昔の時代劇だと、それが切っ掛けで斬り合いになる.と言う演出もありました。
@@colocalo100 さんへ、
車の左側通行も、武士が左側歩行だった名残りらしい。(刀は左腰に差す。右手で抜き易いように) すれ違う時に、刀同士ぶつからないように。
@@Kマサヒロ-w6l それは知らなかった。勉強になりました
@@Kマサヒロ-w6l 武士由来説や、イギリス追従説は通説化してるが根拠がない。実際ハッキリしているのは車(馬車等)が日本で走り始めた頃、明治14年に左側通行にしましょうとお触れが出たことだけ。
6分過ぎの加賀藩<<<綾部藩は逆ではないでしょうか?
いつも勉強になるし、何より面白い!!
こういう話はやはり面白い
前田家は大大名なのに、小さな大名に宿を譲るなんて、当時のご領主の器も大きかったのね。
前田家は大大名だったけど、外様だったからそれも影響したのかね?
次期によってはガクブルで譲ったのかもしれません。当時は田沼時代でしょうから。
綾部藩5代藩主九鬼隆貞の娘は、田沼意次の息子と結婚しています。
5代藩主が亡くなったときに跡継ぎは当歳の乳児。田沼の息子が当歳の跡継ぎを養嗣子にして、6代藩主九鬼隆棋となりました。
今を時めく老中の息子の義理の父親ですから、前田家としても事を構えたくはなかったのかと
@@colocalo100 凄い分かりやすい裏事情、ありがとうございます。当時の田沼の権勢は、本当に凄かったんですね。
大大名すぎて揉め事は避けたかったのかと。外様ですが家格としては御三家御三卿に近い。
それ故に、参勤交代も数千人というトップクラスなので宿変更はそれはそれで相当面倒(宿場側としても)ながら、
かち合って揉めていてはたちまち街道が大渋滞してとんでもないことになってしまうので・・・。
こういうことがあるので、行程管理をする家臣は超優秀な人が務めたそうです。
この殿様は末っ子で若い頃は僧侶だった。でも兄に子どもがおらず他の兄弟も亡くなったから跡をついだ。だから謙虚だったのでは?
相馬藩と会津藩の陣屋での喧嘩は現在の福島県の浜通り・中通り・会津の三分割状態の一種の断絶関係の一端を垣間見ているようで面白い
九州から見ると浜通り、中通りなどは単なる天気予報の区分けかと思っていました。裏にそんな事情がありましたか?
勉強になりました。
大名の陣屋の中にはせめて見た目だけでも城にしたいと思ったのだろう
天守閣のような作りのものもあったそうだ
それだけ城持ちの大名とそうでない大名とでは差がつけられていたらしい
熊谷宿は、くまたにやどじゃなくて,くまがいじゅくですね。
5:28 この前田の殿様は末っ子で元々僧侶だった時期があったから謙虚だったのかな?
それもあるかもしれませんね。彼は末っ子だったために本来ならば家督も望めない、かといって部屋住みも・・・。ということで出家する道を選んだのでしょう。しかし、跡を継いでいった兄たちに不幸が続いたために、兄の命で還俗。いわば「棚ボタ」で藩主の地位に就くことができたのですね。僧侶として学んだことは、彼の心に多大な影響を残していたと考えると、なんとも感慨深いですね。
江戸時代末期は、町場だけ大名行列をして、予め人手を業者へ依頼し、船を利用しお金を節約したのでないでしょうか?
そうだと、聞きますね。 例えば東海道なら、(他国の城下町中だけ、下っ端の人数を雇って決まった人数を、合わせたらしい)
バイトを雇っていたらしい…と、何かで読んだ事があります。そんなに余裕なさそうですもんね、どこも。
先頭じゃ間に合わないだろうから先ぶれを出して「偵察」してたんだと思う。
しかし100万石の加賀藩が気を使って譲ったってのは流石だと思った。
器が違うw
大名でも新田藩といって領地を持たず本家から米を支給されるだけの大名も存在する。だから、そういう大名は水戸藩みたいにだいたい江戸定府。
サラリーマンみたいなもんですね まあそのほうが旗本退屈男みたいで気楽かも。
@@shigesans1 ただし領地は無くて家臣も本家からの出向でも江戸屋敷はあり、決められた日に江戸城に登城しないといけないし、本家の当主が幼いと後見をしないといけない場合もある。
@@yh6146 ふーん、雇われ店長みたいなもんですな。
1万石大名でも知行地が纏まっていないところもあるんだよね
自分の地元の1万石大名がまさにそれで5000石+5000石で陣屋は2軒持っていました
藩名は集落規模が大きい地名からとられます
場所的に数キロしか離れていないのが幸いのようですが、とびとびの知行地のせいで脱出不可能な万年赤字財政だったと聞いています
11:47の画像とか大政奉還の画像とか見てると、大名たちの加齢臭がすごいんだろうな。
上座に居る将軍はさっさと儀式を終わらせたいだろうw
6:00 不等号の向きが逆では?
数学的には3つ以上の不等号記号は無意味だから不等号のつもりではないのかもしれないけど、少し違和感がある…。
江戸時代のお姫様の1日とか、お願い致します。
津軽藩は本来認められない江戸時代に城の新築(落雷で天守閣が爆発炎上)が認められた珍しい例(辰巳櫓の改修名目)家康の養女満天姫が輿入れしていた歴史があるのでわりと初期からこっそり優遇(弘前城築城の際に作業員確保の手助け)されたりしていた。
表が面白い。国持大名がデューク公爵とマーキス侯爵、城持ち大名がカウント伯爵、城なし大名がバイカウント子爵とバロン男爵といったところやな。西洋の封建貴族制と日本の江戸幕府はなんか似ている。
普通に考えたら本陣を譲った側が槍を忘れるはずだし
小藩が大藩に向かって「首を持ってこい」というはずもない気がするので逆じゃない?と思ってしまった
禄高もですが譜代か外様でも違いはあるでしょ。譜代であれば幕府の要職にもつくわけでそうなると禄高だけでもないと思います。それと関東の要職につく譜代の大名は参勤交代がそもそもあったのでしょうか?ほぼ江戸詰めのような気がしますが。
旗本についても動画にしてほしい。
いつも楽しみに観させてもらいます😃私が通った小学校の石垣は昔の陣屋の後と聞いたけど‼️城無し大名の一人だったのかも😏
私こそいつも有難うございます。
陣屋跡が小学校になったのですか(*゚Д゚*)
それは素敵な小学校だったのでしょうね。
陣屋跡が学校や役所になってる例は結構ありますね
群馬県の「七日市藩」前田家(加賀藩分家一万石)の陣屋は今の富岡高校、大戦末期には陸軍中野学校が移転して、間借りしてます
喜連川陣屋も、後に喜連川町役場になってますし
@@偉人はつらいよ文化歴史紹 いつも、ありがとうございます😃丁度、肥後と筑前の県境になるので太鼓橋を渡ってました❗️五十年以上前の事ですがいろんな事を思い出す、面白い動画に感謝します\(^_^)/
陣屋跡が小学校はうちの市内にもあります。
常陸谷田部藩の陣屋で、陣屋の門が小学校の向かいに残っています。谷田部藩は細川忠興の弟興元が初代です。
>>の記号間違いする人多いんよな。
特に若年層に多い。
A>>BではAがBよりかなり大きい事を示す記号です。
でも動画は面白かったので高評価しときました。
あと、表高が無高ながら古河公方の流れを組む喜連川藩なるものもありましたね。
実高は4500石なのに10万石の大名格で、確か明治維新まで続いたそうです。
喜連川藩の話も面白いですね。
@@北の独居
喜連川藩は成り立ちから毛色が違っていて本当に面白いです。
大名扱いなのに参勤交代も手伝い普請の義務も無い。大名なのに官位を与えられないけど、勝手に官名を名乗れた。でも、官位が無いから、江戸城での礼服は平旗本と同じ。それなのに徳川将軍以外で唯一御所号を名乗れた。身分が高いのか低いのかよくわからない。
@@yh6146
喜連川藩の殿様は、どんな日常を過ごしていたのか気になりますよね。
喜連川藩の最大の収入源は 宿場に泊まる参勤交代の大名とか
特に大大名の仙台藩 もし泊まらなければ江戸城内でチクリと嫌味をいったそうだ
かつての古河公方様でもありそう簡単に無下にも出来なかったとか
大名行列は、映画参勤交代リターンズとかでなんとなくのイメージが湧く。
肥後の細川藩は、福岡,黒田藩と、仲が悪く(後藤又兵衛や、宮本武蔵の件で)参勤交代の時、阿蘇越えして、大分から、船で大坂に向かってたらしい。
下野喜連川藩も例外では?
4500石は特例と以前友達から聞きました
因みに、大名の定義は10000石です
4500石なのに10万石扱い。しかも大名扱いなのに参勤交代もお手伝い普請の義務も無かった。初期は江戸城の控えの間が加賀前田家と同じだった。大名なのに無位無官だけど左兵衛督や左馬頭を自称できた。でも武家官位は無いから江戸城での礼服は平の旗本と一緒。
二人のー会話ー話し方ーーー楽しいーー上手いー🍁🍁
母校の校歌の歌詞の由来をここで見るとは………。(笑)
まるで、現代の中間管理職みたいだな😂😂😂
とても面白かったです♪😊
お城を持たないお殿様もいるかもしれないと思ってはいましたが、想像以上に多かった!
参勤交代のニアミスも確かに多かったでしょうね…
先頭の家来の人の役割はかなり重責ですね。
参勤交代は、途中通らない駄目な場所。と言うの幾つか決められていました。なので、その前後ではニアミスするのが当然だったそうです。西国大名は出府の際には「大坂城代」「京都町奉行(と御所)」「駿府藩城代(城番)」への挨拶が義務づけられていました。幕府直轄の重要な場所です(駿府藩は、元大御所直轄領だったため) 当然、その場所の前後ではニアミスが起っていたそうです
(大阪と京都は、各大名が蔵屋敷や京屋敷を構えていたため、街道筋の橋や渡し場でかち合った)
「やりすぎだろ!!(槍だけに)」
うま~~~い。座布団3枚ね
中国との和平の時に幕府から謝罪をもらってきてくれと言われたのでもらいに来たらあれは豊臣がやったから知らないと言われた。
なので謝罪文を偽造して出したという外交官がいたな。
まあ、それがバレてもまあ、嘘もほうべんと笑って許した幕府がすごすぎ。豊臣秀吉なんてキレて戦争だからな。
相馬藩は、伊達が謀反起こすのを想定して家康から先鋒を務める事を申し付けられてた。
相馬と伊達は犬猿の仲だったからね。
でも、相馬藩は表高七万石伊達は六十二万石太刀打ち?その代わりに近隣の代官地を相馬藩に預けたのね。
その預かり地合わせると二十三万石だったのね。
他にも家康から先鋒を申し付けられてた藩は島津に対しての伊東家これも近隣の代官地を預けられた。
毛利に対しては亀井家此も四万四千石だが石見銀山任されてたから裕福だった。
根回し文化なのに参勤交代で出会う出会わないってあらかじめやりとりしなかったのかな。偉い方を先に行かせとけばもし足止め食らっても手前で待機できるじゃん。
江戸時代は米が貨幣と同じ役割、石高を重視していた幕府は外国との取引でコメが使えないことと、鎖国が原因で最新の外国製品を購入できなかった、薩摩や長州は早くから海外の脅威に気づいていたのと、関ケ原以降、長年徳川に恨みがあった、各藩は国、大名は各国首脳のようなもの、各国石高(GDP)は違うが国連のような江戸に、大名に金を使わせる参勤交代、入り鉄砲に出女、、兵器の移動、人質の移動を制限したのも良い、徳川家の政策は現代でも通じるような気がする、お城は今でも維持管理が大変なので、城がない平屋に住んでる大名のほうが楽そう
ざっくり江戸時代は、武士は金を持っていなくて米しか持っていないから貯蓄はできない。金を持っているのは商人、職人。
士農工商を身分制度だとするなら、上位の士農が金を持っていない。
藩に一大事があれば 切腹する役目の家臣がいたとか聞いたことがある
中山道の熊谷(くまたに)ではなく、(くまがや)です。
幕府旗本「儂等も殿様やぞ」
確かに殿様は旗本以上の身分を指す。大岡越前も鬼平も遠山の金さんも殿様。
@@yh6146
あと、深見新左衛門も…(落語 真景累ヶ淵の登場人物)
俺は徳田新之助、貧乏旗本の三男坊だ、め組に居候させてもらってる
@@fw11bred5 ちなみに吉宗が名乗った新之助は子どもの頃の名前。
主はなんでも知ってるな〜 しかもおもしろくわかりやすくまとめてくれてるってことは、この動画の
お、これはイメージだけで終わらないために大切な話ですね。
知らん事もりだくさん、ありがとうございます(*'ω'ノノ゙
P.S. 個人的に、マイナーな新撰組隊員の話とかも聞きたいなぁ。
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
新選組・・・どうしましょうかね・・・(;´∀`)
@@偉人はつらいよ文化歴史紹
あ、いえ、無理に取り上げんでも大丈夫ですよ(笑)
八代将軍吉宗の時代に、ロシア船が日本近海に出没。幕末になると、根室にロシア船が来たとか。
6:40 ここのやばいものを見たかのような表情でマジかよと言っている萃香ちゃんは可愛いから是非とも見てみてね。
アイヌが本格的に弾圧されるのは明治以降なれど、松前氏による収奪も甚だしかったから、内地に転封しっ放しでも良かったのかも… まぁ幕府が結局蝦夷地を持て余し、松前氏に返してしまったということ。
ご感想をいただき有難うございます。
私が読んだ本で、アイヌたちがしいたげられるのは明治以降というのは知っていましたが、江戸の松前藩もなんですか・・・
松前家中の家臣は、禄高がない代わり、商場知行制と言って、アイヌとの交易(まぁ、買い叩き)で賄っていましたから。それを一部の商人に請け負わせた場所請負制になってから、益々ひどくなったようで。
これまた面白そうな本ですね。お殿様といえど一歩国を離れれば格付けの世界に揉まれる事になりますが、だからと言って変な上昇志向を持つと家臣も領民も大迷惑。無事これ名馬ではないですが、名君ほどおとなしく無難に過ごしていたでしょうね。
変な上昇志向で回りに迷惑を掛けたのが水野忠邦。家臣の諫死を振り切って実入りの良い唐津から幕閣に成りやすい浜松に移封。天保の改革については、多く語る必要無し。
当時は無高の蝦夷地が今は最大の米の産地という皮肉。
ご感想をいただき有難うございます
確かにそれは興味深いですね。
そして近年では実は一番美味しいという話
@@S_McQueen 新潟コシヒカリでは無いのか。
@@yh6146
確かに美味いのは、
新潟、福島、秋田と言われてる。
農水省は北海道にはあまり米を作って欲しくなくて、何かにつけて北海道の米のランク下げる策を取ってるらしいが、実は北海道の米一番美味くね?って噂がある。
近年の温暖化と品種改良、
そして肥えた土地ときれいな水のおかげらしい。と米屋が言ってた。
ほいで北海道米買ってみたんよ、
確かに美味いような気がした。
@@S_McQueen 多分農水省は減反したいから、最大の産地にいちゃもんつけている。減反なんて馬鹿な政策しないで余った米を輸出すればいい。
こんばんわ🎵お疲れ様でした🙌❗
ん~~~~😞💦こんなに格差があったなんて知りませんでした😰
殿様も色々だったのですか…🤔
勉強になりました🙇
(*´∇`)ノ こんばんは~
いつも嬉しいご感想を有難うございます。
私もお城に住んでいない殿様がこんなにいたとは知りませんでした(;´∀`)
国持大名と言われるものがいわゆる1国の主。
しかし伊達仙台藩など1国全体ではないが大きな石高 (10万石級以上) を持った大名も国持大名として扱われたそうな。
大身国持ってやつな
…参勤交代の制度を命令したのは幕府で、その命令遂行の為のトラブルや衝突が大名間にあって大名と大名の対抗意識なども少なくないでしょう。発令者の幕府として、そのトラブルに対する調停は充分だったのでしょうか? 大将軍や幕府は日本の軍を統べるのが務めで、大隊と大隊の間で起こされる問題は無視できないはずです! それに家康は日本の秩序を作り守る目的があったはずです。これは大きな問題ですね!
対馬藩は肥前に1万石の領地があったから無高では無いはず。まあ、対馬島の石高は4500石だけど。
ご感想をいただき有難うございます。
それは本に書いていましたね。
最初は無高であったが、途中から肥前や下野を与えられて3万石になったとありました。
槍の件、名前忘れたけど映画があったね
今も昔も大変なんだ😢
確か一番トップであるはずの征夷大将軍も慣例やら保安上の都合でご飯は毎回冷めてる上に油っ気が殆ど無い飯しか食えなかったんだっけ
昭和天皇陛下も、戦前は暖かいご飯やお汁は、ほとんど食べた事なかったらしい。 だから、皇室(直系)は、猫舌だらけだとか?
@@Kマサヒロ-w6l その話は知らないけど明治天皇だったかな?が納豆が食べたいって所望した時に、その江戸時代の慣例の名残(身分の高い方に脂の乗った物や粘りのある物を出すのはNG)で納豆をどう出せばいいか悩んだ末に洗って粘りを取って出したって話がありますね
@@Falken0014 さんへ、
落語の「目黒のさんま」だな。笑
@@Kマサヒロ-w6l まぁあれは流石に作り話だろうけど、アレが洒落にならない位には近い状態だったらしいからね・・・
パッサパサ&冷めた焼き魚しか喰えなかったのは事実らしいからねぇ・・・
実際、幕末で下級身分の出身者が活躍したのは、逆にそういう身分の方が、玄米or雑穀飯+加工されていない新鮮な山海の肉類&魚介類という、ビタミンとタンパク質と脂質が豊富な「下手物」や「粗食」をふんだんに食べられる身分だったという事が大きいみたいですね。偉くないからこそ規制がなく、自由に何でも食べられて、元気に働けたという訳ですね。
面白かったです~~。そして勉強にもなりました。
松前藩、松前漬けでなんとかしてもらえればよかったのにね。
あと、ラッコとか昆布とか、ああ蟹もっ!。←無知ですみません。
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
北海道には美味しい食べ物が沢山ありますものね👍
将軍に献上しておけば・・・
昆布はともかく、蟹を、食える状態で、北海道から江戸まで、どうやって運ぶ。笑
ラッコの毛皮は俵物以外の流通品だったはず
@@シュウ-y2p さんへ、
オットセイのセイは、臍(へそ)て字だけど、男性の竿の意味で、乾燥して強壮剤用に(今で言う、◎ンポ用、バイ◎グラ)輸出されてたらしい(中国向け)
一万石でも、美濃苗木藩遠山氏は城持ち大名。三宅氏も城持ち大名。
槍の鞘、駕籠の簾の色、屋根の色等で行列の先見役は三百諸侯の槍の鞘、駕籠の姿形を暗記しなければ為らなかった。
相馬中村藩は、平将門直系だけに
プライドは高かった。本分は外様だが、対伊達対策で徳川準普代に為ってたしね。表高六万石だが、伊達対策で近郷の代官領も合わせて預けられていて、実高は二十三万石でした。相馬と伊達は戦国時代から犬猿の仲でそれを家康が利用した。
他にも対島津で伊東氏、対毛利で亀井氏と家康も考えてる。
対前田には甲府勤番を行かせてたしね。他にも武田遺臣の八王子千人同心、神主、地侍にも念書を贈って
いざと言う時には甲府城に入る事を約束させてる。その替わり田畑には
税を掛けなかった。田んぼは名田、畑は手前造りとしてね。
国持大名が20家、その国とは? 藩(領)とは?
槍を忘れたのは会津藩なんですか?
本陣移動の際に相馬藩が置き忘れたのではなく?
…と思って調べてみたら『文化秘筆』と『半日閑話』で加害者被害者が真逆になってるんですね
これだから歴史は興味深い
前田藩に遠慮された綾部藩、顔面蒼白で詫びいれたんでしょうね・・・
青くなったのは前田藩かも。
当時の綾部藩主は、5代か6代。 6代は婿養子に入った人で実父は田沼意次。
5代は実子ももうけますがその年に死去。6代が5代の実子を養嗣子に迎えて跡を継ぎました。
@@colocalo100 あーなるほど、それで遠慮したのかもしれませんね。
それはそれでいろんな事情が見えてきて面白いですね。
「そうせい」だけ言って暮らしたい
旗本は悲惨だったと思うな…金なし、地位なし、ナメられる(`・ω・´)
そして子孫が「この私、ヒモ」なんだから
旗本より悲惨なのは御家人 カネなし地位なしナメられまくりの上長屋住まいがほとんど 名字帯刀程度しか特権無し
あげくに石高何万石だ何千石だなんて夢のまた夢で現実は何十俵取り程度
城は使節?城は施設じゃないの?
前田は外様の大藩だから絶対いざこざは起こせなかった。何を理由に減封されるか分からない
前田利常は江戸城敷地内で堂々と大小便して黄金一枚置いて立ち去って(ここで大小便為す者黄金一枚の罰金に処す趣旨のタテカンあり) 「黄金一枚出せば気兼ねなく出したいものを出せる ならば黄金一枚出そうじゃないか」とイヤミ言い放った気骨ある当主だよ
大河ドラマ八代将軍では前田綱紀が老中を呼び捨てにしていたけど、しかも老中も前田様と呼んでいた。
漢字の表記ミスと読みの間違いが多いな。気にしなければ、気付かなければそれでも可。面白いよ。
加賀が完全に別格だよなあ
色々合わせると前田は最大125万石で二城持ち、白書院挨拶だもんなあ
正妻と嫡子は江戸在府ということは、全国の殿様はみんな江戸育ちということになるよね?
安倍晋三や麻生太郎と同じだね。
ここにもコロ助の影響が(^_^;)
江戸の流行病についても知りたくなったですw
ご感想をいただき有難うございます。
当時の流行り病は、とんでもなかったと聞きます。
良い本を探しておきます。
朝鮮出兵というより唐入りの方がしっくりくるかもね。
あと特殊なお殿様としては喜連川藩のような特別な場合もあったりします。興味が沸いたらぜひ~♪